原子力発電所は張り子の虎である。

原子力発電所は張り子の虎である。二重の意味において。


一つ目。核物質を閉じ込めるのだと工学技術の到達点を自慢げに披露していた、電力会社や政府の言葉は地震という現実によってあっさり裏切られた。「五重の防御」も無力だった。今も放射能はまき散らされ、野田首相は事故の収束、「冷温停止」を宣言したが、誰も信じようとはしていない。原子力の「平和利用」とは、いつ破れるのか分からない薄紙の上に成り立った茶番だった。


二つ目。そして、原子力発電が我々の繁栄のために必要だった、経済を支える柱であったし、柱であり、これからもそうあり続けるだろうというふざけた考え。経団連原発がなければ電気料金が上がり、資本は海外に流出すると脅す。政府は東電を救うために1兆円を投入すると言うが、当の東電会長は1兆円では1年しか持たない、と嘆く。


原子力発電の導入が叫ばれ始めたころ、その輸入先だったアメリカ合衆国には原発は存在していなかった。「夢の電化生活」に原発が必要、などという喧伝は事実として間違っていた。その頃の日本での発電の主流は水力だったし、高度成長期を支えたのは主に火力だった。反原発運動の源流の一つは巨大な火力発電所建設に反対する運動にもある。当時は火力の煤塵公害も問題にされていた。


原子力発電が発電量の3から4割を占める。だから原発は必要だ。おかしい。原子力であれ、火力であれ、私たちにはそれを選ばない道もあったはずだ。いったん選んだのだから、もう後戻りはできない。原発で作られた電気によってお前は生かされてきたのだから、何をいっても無駄だ。そんな馬鹿な話があるか。原子力発電の発電量におけるシェアなど、結果に過ぎない。


「電気がなくなって原始時代の生活に帰るのか」という愚かな問い。そんなことをうそぶく輩は原発がなくなったら原始時代に帰るのだという覚悟を勝手に人に求めて、自分にはその覚悟などないのだ。事故が起こり、誰の目にも原発の危険は明らかになり、それでもまだ原発に反対したり原発を全廃するのは現実的ではない、という「現実的」意見。放射能は降り注ぎ、原子炉では過酷な被曝労働が続いているのに、その現実を延長することしか「現実」の選択肢を持とうともしない。それをいつまでも続けることなどできはしない。


原子力発電所は張り子の虎である。